鹿児島出身の友人R氏から強く勧められて訪れた知覧です
知覧特攻平和記念館
大学3年の夏(1970年)
徳山沖大津島の回天記念館を訪れ
大変ショックを受けた記憶が鮮明に
残っています
この地は 長く訪れて見たかった
場所でした
館内は撮影禁止です 展示物の写真を悪用されるのを嫌うのかも知れませんが
むしろ 積極的に公開して世間に広めることも必要ではないでしょうか
情けないことに 涙が止まらず数多くの遺書をしっかり読み込む余裕が
有りませんでした
10代の若者から一番年長でも30代の若き命が失われました
特攻兵としての戦死者は 海軍 4,156名 陸軍 1,689名
合計 5,845名を数えます
自決者を含め特攻関連の戦死者は 14,009名を数えます
平和の母 像 平成9年建立
富山 生源 制作
何やら エジプト風の衣装は
違和感が無きにしも非ず でした
記念館の敷地前には 多くの記念碑が
建てられています
中でも一番有名なのがこの碑でしょうか
知覧特攻基地を高名成らしめたのは
特攻の母と慕われた 富屋食堂の
鳥濱トメさん
石原慎太郎の碑文
出撃前夜に 若者が 蛍となって帰ってくると云い
トメさんの経営する食堂に戻ってきたというドラマ
蛍に呼びかける生き残った者達の
鎮魂の碑が並びます
別の友人から旅立つ前に教えて貰った
この特攻の中に朝鮮人の若者が居る
との話の通り 哀しみの碑が建って
いました
アリランの歌声とほく母の国に
念ひ残して散りし花花
出撃の前日 富屋食堂の上がりがまちに
立ち アリランを唄って逝った若者は
一人も身寄りが居なかったそうです
忠魂 蛍の碑
ほたる火と なりてきませる
つはものを なごし まつらむ
けふの 祭りに
返し歌
わたつみの宮のうたげは
楽しくあれど やまとし おもはば
うれへ なげかゆ
帰るなき機をあやつりて往きしはや
開聞よ 母よ さらば さらばと
20歳前後の若者達が
何を考え 死に向かい合っていったのか
決して衝動的に気持ちを高ぶらせるだけでは
操縦桿を握ることは出来なかったのでは無いか
と思います
慟哭 誓いの碑
この鎮魂、慟哭の中に
我ら国を超え 民族を超え
世界人類永遠の平和を ここに誓う
現地に足を運んで
慟哭の意味が とても良く理解出来ます
とこしえに と名付けられた特攻兵の像
御霊のとこしえに安らかならんことを祈り
と 碑文に有ります
戦後30年近く経った昭和49年に
建てられています
制作は 伊藤五百亀
特攻に逝く若者を見詰める母親の像
2007年5月公開映画
「俺は、君のためにこそ死ににいく」
のために復元された一式戦闘機「隼」
知覧特攻基地から120機が
飛び立っているそうです
この映画は 鳥濱トメさんの視点から
特攻を考えた映画で石原慎太郎の制作
トメさん役は 岸恵子が演じています
特攻出撃が決まると
この三角兵舎に移動し
最後の数日間を過ごします
最後の番は壮行会が催され
酒が酌み交わされ 遺書を書いて
過ごします
三角兵舎の内部
この兵舎は 復元されたものです
個室に慣れた現在の若者には
堪えられないかも知れません
旅の前に資料を整理していて
興味を引かれたのが 特攻平和観音堂
でした
法隆寺秘仏 夢違観音を模して
昭和27年春 陸海軍各二体ずつを鋳造
陸海軍一体ずつが 東京世田谷観音に安置され
海軍のもう一体は三宅島サタドー岬灯台に
そして陸軍の一体が この地に安置されました
身の丈 一尺八寸(54センチ)
昭和30年に安置されたこの地の観音には
胎内に知覧から飛び立った1036霊の
霊名簿が納められています
東京の世田谷観音は 私が生まれ育った野沢に在り
子供の頃に境内で遊んだ記憶が有ります
世田谷観音に特攻観音が安置されていることは
微かな記憶として残っていました
特攻平和記念館の入り口に建つ 夢たがい観音
平成元年の建立ですが 夢たがい と名付けられて
います
法隆寺の夢違観音は 長く 夢たがえ観音
もしくは 夢たがい観音とも呼ばれていましたが
現在は 夢違(ゆめちがい)観音に統一されて
いるようです
記念館に隣接する 知覧町護国神社
珍しい石造りの社です
訪問したのは4月29日でしたが
右側に 5月3日の知覧町戦没者慰霊祭の
準備のテントが張られていました
知覧町護国神社の狛犬
かなり装飾的で異国風の感があります
平成16年の慰霊祭に際して建てられた碑
此処に掲載すること自体が不愉快な気持ちを
抑えられませんが 抗議の気持ちを込めて
揮毫は 内閣総理大臣 小泉純一郎
至純の言葉にどの様な意味が有るのでしょうか
自分の名前を織り込んだ売名行為ではないのか
至純とは 混じり気の無い 純粋な という意味ですが
彼は何を言いたかったのか
もう一つ 意味の判らない碑を
碑文は 中々読みきれませんでしたが
碑文の上に
三十七八年戦域模型 との
東郷平八郎の揮毫が記されています
司馬さんが 日露戦争の大勝利が
日本の立ち位置を変えてしまった
それ以降の日本の針路を誤らせたと
何度も書かれていますが
その証を見たような気がします
調べが不足し 鳥濱トメさん奉納の灯篭 とか 旧特攻機地など 見落とした場所も
幾つか残りました
鹿児島知覧の旅 次の目的地は
薩摩藩知覧島津家の武家屋敷です
徳川幕府が一藩一城を徹底させたため
島津藩は鶴丸城以外に城を持つことが
許されません
そこで藩内に100を超える外城の一つとして
知覧の地にも 軍事拠点としての在郷士族の居住地を
作りました
かりこみし門のはひりのかなめ垣
若葉の色は花にまされり
案内図に 薩摩の小京都 とあります
何が小京都なのか 良く判りません
観光地特有の 「なんでも京都」主義の
哀しい宣伝文句です
屋敷群の真ん中を走る路は
各屋敷の敷地より少し掘り下げて
有ります
攻め込まれた時の防衛上の
工夫なのでしょうか
遠くの山が借景となっており
木々の青さが映えています
一部の壁の色が
とても印象的でした
佐多直忠氏庭園
当代の奥様が 庭園を説明して
くれました
母が岳を遠望する庭は
7つの公開庭園の中でも
秀逸でした
昔はこのような藁葺きの
知覧型二ツ家といわれる
個性的な構造だったそうです
母が岳遠景
日差し強く
雲ひとつ無い快晴でした
鍵の辻にある
何か謂れのありそうな
石でした
鍵の辻からチョと奥まったところに
十割蕎麦の幟を見つけて
寄ってみました
昔造りという暖簾の文字に
面白さを感じました
定食は ¥1,300
つなぎ無しの蕎麦は
少しボソッとした感じで
如何にも十割蕎麦
郷土料理と豆ご飯
とても美味しく頂きました
あくまき(灰汁巻)
粽(ちまき)の一種のようで
もち米が原料
武家屋敷の一つ西郷邸の鎧
武者行列の際に着用するそうです
西郷邸の庭
提灯だそうです
ほたる伝説の富や食堂
映画のために再現されたものを
資料館として保存しています
ほぼ 実物通りに再現されているそうで
内部は撮影禁止でした
鳥浜トメさんの次女 礼子さんの口述を書き下ろした実話
晩年のトメさんは極端なマスコミ嫌いとなられ 取材を受け
付けなかったそうです
唯一の例外が 石原慎太郎氏
彼が脚本を書いて映画化したのが
「俺は 君のためにこそ死ににいく」
高倉健主演の「ホタル」は 実話をもとに創作された映画
内容は 感動を呼びますが 脚色がされています