慶應讃歌

 生生活の最後の4年間を慶應義塾で過ごしました
 学生時代は 校風に中々馴染めず居心地が悪かったのですが 卒業から幾星霜 外から眺めるようになって 段々愛着が生まれてきました

 以下は OB会 連合三田会で唄われるカレッジソング 慶應讃歌
 作詞作曲は 平岡養一氏

一、
光あふるゝ三田の山
我等が校庭に集いたる
希望に充ちし若人は
独立自尊の城南健児
我等が若き力以て
理想の祖国を打建てん
慶應 慶應 慶應義塾
その名讃えん我が母校

二、
栄えに輝く三田の山
意気と力と熱情の
血潮に燃ゆる男の子等が
今ぞ戴く覇権の冠
かゞり火映ゆる丘の上
凱歌を挙げん高らかに
慶應 慶應 慶應義塾
いざや讃えん我が母校

三、
あゝ美しき三田の山
第二の故郷三田の山
共にむつみし幾年は
心に永くとゞまらん
月去り星は移るとも
夢に忘れぬその名こそ
慶應 慶應 慶應義塾
永遠に讃えん我が母校

 道の奥に見えるのは 浜松町貿易センタービル

 浜松町の駅から新橋方面に線路沿いに
 少し歩いた左側に 芝神明小学校跡があります

 線路を挟んで東側には 浜離宮が広がります
 まさに昔は 芝浜の辺りと思われます
























 神明小学校跡の案内板の近くに
 小さな碑が立っています




















 福沢近藤両翁学塾跡とあります

 碑には1868年から1871年まで
 慶應義塾がこの地に在ったと書かれて
 います

 1858年中津藩藩命により
 25歳の福沢諭吉が蘭学塾を開いたのは
 築地鉄砲州 中津藩中屋敷内 
 現在の聖路加病院の隣の地です

 その後 芝新銭座 鉄砲州と移転し
 慶應4年(明治元年)にこの地に移転




 この地で初めて慶應義塾と命名されました
 有名な 上野戊辰戦争の折砲声の中で
 学問を続けたのはこの地でのエピソード
 
 1971年 三田の地に移転する際
 近藤真琴にこの地を譲るのですが
 此れが後の攻玉社となります










 直ぐ隣に 行き付けの蕎麦屋
 本枯があります















 住所は 港区浜松町 1-13 です





















 慶應繋がりで
 中央は 銀座4丁目晴海通り沿い
 高橋洋服店 店主 高橋潤氏
 通称 たかじゅんさん 
 今や銀座の顔の一人
 美味しいワインと両手に花でご満悦
 連合三田会 2の会幹部新年会にて

 2の会は 1972年 82年
 92年 2002年各年に大学を
 卒業した仲間 2年後に控えた幹事年に
 向けての新年会でした
 左側は 10年後輩の伊能素子さん




 一万円札に使用された印刷局作成の福沢諭吉像

 写真ではなく印刷局の職人が写真を素に
 描いた絵です


















 文久二年 1862年 オランダ ハーグにて
 宮廷写真家セベリンスタジオで撮影された
 福澤諭吉

 既に4度目位と成る海外視察なのに
 未だ髷を付けているのが面白いですね
 















 大学卒業同期の仲間が全員還暦を
 迎えたのを祝って集いが行われました















 出席者が待つ中 先ずは塾旗の入場
















 この日登場したのは 第四塾旗(昭和58年製)

 「最も優美で最も厳格」と紹介されていました
 青というより紫に近い色調でした


















 先ずは壇上で答礼

 手前の後姿は この会の主催者
 中瀬 雅道氏
 我がクラスメイトです












 応援指導部指導による塾歌斉唱

 7分ほど掛かる長い歌詞を
 多くの仲間が忘れております

 エールのスタイルも我々の現役時代とは
 随分変わっているようでした















 中瀬会長挨拶

 6千人の同期生
 4千人に連絡し400名強が参集

 既に逝去された150余名に黙祷を捧げました

 我がクラスでは つい先日逝去された林君を含め
 6名が還らぬ人となっています












 清家新塾長の来賓挨拶
 我々より6期程後輩

 塾長のほうが年下というのが
 妙な感じでした


 2年後には 卒業40年を迎えます













 毎年10月の第3日曜日頃に 日吉校舎で 連合三田会大会が開催されます

 慶應義塾大学OB 所謂塾員の集まりです
 三田会は 地域 職域 体育会 文連 年次 クラスなど沢山の組織からなります

 その集合体が 連合三田会大会
 毎年1万人近くの塾員が集まります







 連合三田会会長は 服部禮次郎氏
 大正10年生まれの御年76歳
 大変お元気です











 連合三田会大会は 卒業40年 30年 20年 10年の幹事年にあたる有志が
 運営します

 9年前の卒業30年の年に 私もお手伝いをさせていただきました































 開会式典には 塾長も参列され祝辞を頂きます
 塾旗の入場 塾歌斉唱は応援指導部のリードで高らかに歌い上げます













 司会は 塾出身の現役アナウンサー 
 この日はTBSのお二人












 この福沢先生の肖像画は 銀座交詢社で見たことがあります


































 塾員が経営する酒蔵が集います

 山形の大山も

















 連合三田会大会の会場設営を担当する方達で組織化されたてんと三田会
 私も賛助会員です


















 随分形が違って見えますが 左右何れも慶應義塾の校旗「塾旗」です

 左が第一塾旗 右が新第二塾旗

 歴史的には 明治27年11月26日 旅順港陥落の祝賀に塾生がカンテラ行列を行った際
 その行列に塾旗が翻って居たとの記事が 時事新報28日の記事に取り上げらえているとのことです

 塾内の運動会などで紅白の幔幕を旗として使用したが 白地が汚れ易いため 浅黄と紅を取り合わせたものに
 校章のペンのマークを付けたものを三色旗として使用したのが始まりのようです

 浅黄というより濃紺もしくは紫に近い色 形も色も様々なものがあったようですが 昭和39年2月14日に
 塾旗の基準が正式に制定されています

 慶應義塾大学応援指導部のホームページには 数多くの塾旗が紹介されています

   幻の大塾旗
   第一塾旗
   先導旗
   新大塾旗
   新世旗
   新第二塾旗
   第三塾旗
   第四塾旗
   第五塾旗
   金ペン塾旗






 式典で使用される幔幕も三色旗の色を使用します





















 塾旗の入場 厳粛に 左右に大きく足を差出し ゆっくりと進みます





















 壇上右で 旗手が大きく足を広げ踏ん張り 水平にまで旗を下げ
 聴衆に挨拶します

 土俵入りの様な雰囲気であります


















 応援指導部の指揮による 塾歌斉唱

 何度見ても格好良いです

















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 学生時代 慶應はゆりかごから墓場まで面倒を見てくれると云われました
 事実 出産の病院(信濃町慶應病院)から葬儀社まで 経営していると聞きました

 ご紹介するのは ミネラルウォーター
 三田のキャンバスの自販機で見付けました

 早稲田大学は キャンパス内にホテルを運営しています
 大学運営も 私学助成金の減額 少子高齢化に伴い学生だけを相手にしていたのでは
 成り立たなくなっているのでしょう
 キャリアを終えた同期の仲間が 社会人大学で勉強をし直している話もよく聞きます

 この水は お値段¥100
 これは お見事 評価しなくては デザインもあか抜けています

























 慶應に詳しい方でも これはご存知の方が少ないかもしれません

 日吉のキャンパスに 教会があります


























 慶應義塾キリスト教青年会との看板がありました


 1937年(昭和12年)建設後 慶應義塾に寄付されています
 設計は 建築家ヴォーリス(メンソレータムの近江兄弟社創立者)
 






















 慶應義塾大学キリスト教青年会は 1898年(明治31年)設立
 大学の文化系サークル(文連)では 3番目に古い歴史を誇ります

 教会は 日吉キャンパスの南のはずれにありますが
 学生時代 その存在も知りませんでした