神戸事件



 神戸三宮神社です































 境内左端に 史跡 神戸事件発生地 と掛かれた石碑が建っています


































 神戸事件をご存知でしょうか

 文久2年(1862821日に横浜で起きた生麦事件は 有名で翌年の薩英戦争の切っ掛けとなりますが 神戸事件も同じような経過を辿り 一時神戸市内が外国軍隊に占領されるという事件となります
 神戸事件の起きた前後の政治情勢は 概略以下の通りです

 慶應3年(1867)

  10月14日 徳川将軍慶喜が大政奉還
  12月 7日 兵庫開港
  12月 9日 王政復古の大号令

 慶應4年

  1月3日~6日 鳥羽伏見の戦い
    7日慶喜に追討令が出され正式に朝敵となる

 このような環境下で 3日 徳川方に属する尼崎藩牽制のため 明治新政府は備前藩に対し 摂津西宮の警備を命じる

 1月11日13:00過ぎ 備前藩家老 日置(へき)帯刀(たてわき)が大砲を伴った500人の隊列を率い 西国街道沿いの神戸三宮神社近くに差し掛かった時
 付近の建物から出て来たフランス人水兵2名が 隊列を横切ろうとする

 これは 武家諸法度に定められた「伴割(ともわり)」という非常に無礼な行為であり 此れを見た第三砲兵隊長 瀧善三郎正信が槍を持って制止に入るが
 言葉が通じず強引に隊列を横切ろうとする水兵に槍で突き掛かり 軽傷を負わせてしまう
 一端 民家に引いた水兵数人が拳銃を取り出し それを見た瀧は「鉄砲 鉄砲」と叫ぶ 此れを発砲命令と受け取った藩兵が発砲し銃撃戦となる
 この小競り合いが 西国街道に隣接する居留予定地を実況検分していた欧米諸国公使達に数度一斉射撃を加える結果となり
 居留地の反対側にある旧幕府運上所(神戸税関)の屋上に掲げてあった列国国旗を穴だらけにしてしまう

 現場に居合わせたイギリス公使ハリーパークスは この事態に激怒 列国艦隊に緊急事態を通達 同日中に神戸中心部を軍事占領し 兵庫港に停泊中の日本船舶の拿捕に至る

 事件収拾のため 事件翌日の1月12日に着任したばかりの外国事務掛 伊藤博文が折衝にあたる

 2月2日 備前藩は諸外国の要求を受け入れる

 2月9日夕刻 兵庫南仲町永福寺本堂において列強外交官 伊藤博文立合いの下 瀧善三郎32歳は古来からの作法に則り切腹を果たした

   辞世 きのふみし 夢は今更引かへて 神戸が宇良に名をやあげなむ


 瀧善三郎の慰霊碑は 当初永福寺に建立され 百回忌の昭和44年 兵庫区北逆瀬川町の能福寺に移設されている

 瀧善三郎が切腹の場を借りた浄土宗永福寺が 私の母の実家 山﨑家の菩提寺にあたります
 永福寺は 昭和20年3月17日の神戸大空襲で焼失 現在 永福寺の檀家管理は有馬極楽寺田中大介住職が永福寺住職を兼務され 極楽寺に委ねられています

 三宮神社に建てられた神戸事件の碑は 永福寺先々代伊藤住職の筆によるもの 
 伊藤住職は京都大学哲学科を卒業され 坊主としては一風変わり者でもあったようで
 「残されたものが死者に振り回されてはいけない 仏様は『放っとけ』で良いのじゃ」と良く話されておられたそうです

 昨年9月に神戸在住の叔父が亡くなり 舞子墓園に移された永福寺墓園にある山﨑家墓地に納骨しました
 身体が不自由な叔母の代わりに 私が納骨の手続きをしましたが 先々代伊藤住職のご子息 伊藤光彌さんが永福寺墓園の管理をされており
 複雑な手続きからお寺さんとの付き合い方まで懇切丁寧に指導していただきました


 墓園からの帰り道に 三宮神社の神戸事件の碑を案内していただき 初めて事件の経過を知りました
 一時的であっても外国の軍隊による軍事占領が行われたという事実は とても衝撃的でした





 永福寺での切腹の図

 この時代 切腹は非常に形式的になって 腹に刀をあてただけで介錯人が首を落とすような形が取られていたようです

 滝善三郎は 古式に則り 腹を十文字にかっ割き 静かに首を前に倒す間 眉一つ動かさなかったと 立ち会ったアーネストサトウが
 記述しているそうです(原文を読んではいません)

 瀧の出身地 岡山市の七曲神社境内に 滝善三郎義烈碑が建てられているそうです



















 永福寺 先々代伊藤住職のご子息 伊藤光彌さん
































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