松山散歩



 前回 伊予松山を訪れるたは 十数年前になるでしょうか
 前回は仕事で走り回っただけで 市内を観るのは二十年振りのことになります












 春や昔
   十五万石の
     城下町

 松山駅前に建つ 正岡子規の句碑





























 生まれて初めて 観光タクシーを利用しました
 
 「坂の上の雲 小説ゆかりの地を訪ねて」

 愛媛近鉄タクシー ¥3,000/二時間


 前日に ホテルから予約したところ 何と 利用者は私一人
 貸し切りの半日となりました











 運転手の兵頭(兵藤?)さん

 何時もは 10人近くでマイクロバスを運転するそうですが
 私一人でやり難そうでした

 本職は 市内タクシーの運転手

 趣味は 俳句作り
 一日3句はお作りになられるそうです











 最初に教えていただいたのは
 松山市内を走るバイクの 坂の上の雲を型どった雲型ナンバープレート

 此れは 洒落てますね










 正岡子規生誕の地

 慶應三年九月十七日 この地に子規は生まれます 
 この年は 徳川慶喜が征夷大将軍に就任 公明天皇が崩御
 マルクスの資本論が発刊
 10月に大政奉還 11月には坂本龍馬 中岡慎太郎が暗殺されます 

 時代が動いています

 子規は 本名 常規 幼名 処之助
 「処(ところ)」さんと呼ばれていたそうです
 後に 升(のぼる)と改姓します









 明治元年 生家から700mほど離れたこの地に正岡家は転居します

 南側を中川が流れ 180坪の大きな敷地だったようです
 玄関の隣に三畳の子規の勉強部屋があり 此れの再現が子規堂だそうです










 現在子規堂のある正宗寺境内
 松山市駅の直ぐ南側にあります

 境内は 寄せ集めの観光スポットが並びます










 子規が乗り 漱石が乗り
  三津に行き 道後に行きたる 
   汽車かこの汽車

 坊ちゃんの著者 夏目漱石の頭像















 左は 横綱千代の富士の書「道」
 なんでも 住職が千代の富士と親交があったとのこと

 右は 子規と野球の碑
 野球は子規の訳によるものですが 
 自分の名前「升(のぼる)」に かけたと
 云われています






 子規堂は 子規旧家取り壊しの折に
 廃材を集めて 子規の勉強部屋を再現したものだそうです

 既に二度焼けて 現在のものは三代目










 子規旅立ちの像

 松山に一つしかなかった勝山学校 松山中学を経て
 子規は 明治16年松山中学を中退して 東京へ旅立ちます
















 現番町小学校(子規が通った勝山学校の裏手)にある
 子規旅立ちの像 此方が本物




















 子規堂内 三畳の子規勉強部屋
 増築された当時は屋根もなかったそうですが
 それでも 勉強部屋を持つ子供は少なく
 訪れた秋山真之は 羨ましがったそうです
















 子規絶筆三句

 直筆の様です























 明治30年 子規が創刊した俳句雑誌「ほととぎす」







 勝山学校 松山中学跡

 











 明治二十八年 夏目漱石は此処松山学校で英語の教鞭をとります
 坊ちゃんは この時の体験をもとにして書かれます
 
 わかるるや 一鳥啼いて雲に入る 漱石
   明治二十九年四月 熊本五校へ転任の際 漱石が近藤我観に送った句









 漱石が松山赴任時に最初に泊まり 秋山真之が子規見舞いのため泊まった旅館きどや













 市電大街道駅の南側 愚陀仏庵跡
 漱石が下宿し 子規が一時同居した地

 愚陀仏庵は 萬翠荘裏に移築されましたが 台風で壊されてしまい
 現在はありません