鹿児島紀行 次の目的地は 徳重神社です
薩摩藩島津家第十七代島津義弘の戒名は
妙円寺殿松齢自貞庵主
朝鮮役では「石蔓子」(シーマンズ)と恐れられた
義久を祀るのが徳重神社(旧妙円寺)
関が原の合戦で正面敵中突破を敢行した
義久を偲び 旧暦9月14日に鎧甲冑に
身を固め この地へ集うことを妙円寺詣り
と呼ぶのだそうです
実はこの地には妙円寺という大変大きな
お寺があったのですが 明治の廃仏毀釈に
遭って完全に焼け落ちてしまったそうです
同じ地に 徳重神社という社が建ち現在に
至っています
処が 直ぐ近所に再び妙円寺が再建され
徳重神社と今も争っているのだそうです
全くこの辺の経緯を知らぬまま
徳重神社のみ訪れました
徳重神社と妙円寺の係争は 今も続いています
ネットで両者の主張を比べるのも凶器深いですが かなり激烈な言葉も見受けられます
妙円寺側は 廃仏毀釈の暴虐性を明らかにすることだけでなく 現在も続く妙円寺詣りに
おいて 現在の妙円寺の存在を明示すべきだと主張しています
境内には妙円寺詣りの歌の碑が建ちます
関が原の合戦の折 義弘は徳川方に付こう
と伏見城に向いますが 幾つかの行き違い
から西軍に加わり全く動かぬまま西軍の
敗北が明白になった後 家康の本陣を
突き抜けて鹿児島に戻ります
この時に用いた島津軍の捨て奸(すてがまり)という
戦法は 退却しながら数人ずつが死ぬまで
敵を食い止めて義弘を逃がすという壮絶な
ものです
妙円寺詣りの歌は 大変長い歌の
ようです
平成12年(西暦2000年)10月12日が
関が原合戦400年目の妙円寺詣りの日
第50回記念とあります
徳川と薩長の怨念は今も残る
ということでしょうか
神社の本殿には 西郷隆盛の敬天愛人の
扁額が掲げられ 至る所に島津家の
家紋が見られます
境内に並ぶ13基の灯篭
義弘に殉死した13名の家臣を
偲ぶものです
当時殉死は法度とされていたにも
かかわらず13人も殉死したことから
義弘が慕われていたことの証とされています
徳重神社の狛犬 比較的新しい作品と見ました