ペリー来航から日米修好通商条約への道

 
 嘉永6年のペリー来航から日米修好通商条約締結までの経緯を可也詳しく追いかけました

 従来 

   大老井伊直弼が朝廷の勅許も得ず勝手に条約を締結

   反対勢力を安政の大獄に寄り弾圧

 と 幕府の政治に誤りがあったと認識されていますが

 江戸時代を通じて朝廷は政治には関与せず幕府に一任していたこと 安政の大獄は正規の手続きを得ずに出された
「戊午の密勅」の回収に関わる懲罰が行き過ぎたものであったと理解しました

 徳川幕府では 明治維新の実行は難しく 西欧列強による植民地化の波から日本を守り切れなかったことも否定は出来ませんが
 幕末から維新にかけての討幕運動は 関ヶ原の敗者たる薩長による政権抗争であったことは間違いのない処と考えます

 歴史が動いて行く過程を辿ることは 興味が尽きません











嘉永6年(1853)6月3日

 ペリー浦賀に来航 フィルモア米国大統領親書持参

 当時の国際法では入り口が直線距離で6海里(約11km)より狭い湾や内海はその国の領土と看做されるが ペリーは領土侵犯を承知のうえで内海の測量を始める

   旗艦サスケハナ号(外輪式蒸気フリゲート艦)

     2,450トン 全長78.3m 最大速力10ノット

 

     パクサンズ砲(フランス製) 有効射程距離は6kmを超えるので江戸城への

     砲撃も可能であった

 

   当時の日本の最大の船は千石船(150トン)

 

7月1日

 老中首座 阿部正弘(福山藩主)は 信書に対する対応について諸大名

(大廊下 大広間 溜間詰の大名49家)に意見を求め幕臣にも諮問する

31家から回答

拒絶論の代表格徳川斉昭の説は 米国と全面対決とならぬよう当分は用心深くのらり

くらりと真意を明らかにしないような戦術で対応しその間に軍事力の増強に努め緊急の

課題は挙国一致の体制を築くこと 真面に立ち向かって勝ち目のない戦争を主張して

いる訳ではなかった

 

此れまで 政治 軍事・外交について 諸大名に意見を求めたことは無いが 阿部は

国家の基本姿勢である国策の変化をもたらす重大な問題であり 朝廷の意見を聞き

武家の総意で事にあたる必要があると判断した

 

嘉永7年・安政元年(1854)1月16日

 ペリー再来日 軍艦6隻で測量済みの小柴沖まで侵入

 

3月3日

 日米和親条約締結

   日米両国永世不朽の和親締結

   下田函館の開港

   薪水食糧石炭等の供給(売買)

   下田に領事駐留

   米国に片務的最恵国待遇を付与(日本には付与せず)

 

   通商・国交(開国)には触れて居ない

 

 Cf.天保13年(1842) 

薪水給付令発令

 

   この条約は 薪水給付令の延長線上のものであり 天皇朝廷・大名からも異論なし

 

 

 8月

   品川台場建設開始

     5基完成 資金難で以降中止

 9月

   寛永12年(1635)発令の大船建造禁令を廃止

 

安政2年(1855)10月

  長崎海軍伝習所創設 4年で廃止

 

安政3年(1856) 下田玉泉寺にアメリカ領事館設立 初代総領事ハリス着任

  ハリスは米国大統領ピアースから日本との通商開国条約調印の権限を付与されていた

 

安政4年(1857)10月21日

  ハリス江戸城に登城 将軍家定に国書提出

    英国の清国における野望とアヘン貿易の害を強調

    英国が艦隊を派遣し日本に通商・開国を迫る前に日本との親密な友好関係を

望んでいる平和主義国家アメリカと条約を結ぶことが日本にとって得策である

ことを2時間にわたって演説した

 

当時 米国もトルコのアヘンを清国に運んでいたこと メキシコ戦争でカリ

フォルニアを手に入れたことを隠していたが 日本は既にこの事は知って居た

 

日米通商条約

  片務的最恵国条款(日米和親条約から引き継ぐ)

  日本の関税自主権を認めず

    日本は半開国であり開花した米国と対等な権利は認めない

  領事裁判権

    日本側は 居留地内の外国人同士の紛争犯罪に係わる問題にすぎないと誤解する

  内地解放

    外国人の居留地外の自由な行動は認めない

    明治政府による条約改正努力の際に交換条件の切り札とされた

 

日米通商条約調印時の幕府と朝廷の関係

  徳川幕府は朝廷より征夷大将軍の任命を受けているが 此の際には政治外交に関する

  朝廷と幕府の役割の明確化は一切されて居らず 書面化したものはない

  

  慶長20年(1615)7月17日 二条城に於いて徳川家康(大御所)秀忠

(二代将軍) 二条昭実(前関白)の連署をもって禁中並公家諸法度が公布される

(江戸期に一切の改定はなされていない)

 

  天皇は 学問に専念するもの規定する

  幕府は天皇から「大政」(政治軍事外交権限)を委任されているとの理解を前提に

  国家を運営する 

従って 慣例に基づいて幕府の責任で調印し諸大名と朝廷には事後報告で済ませる

日米通商条約締結経緯

  

安政4年(1857)12月11日

  ハリスとの条約交渉開始

    下田奉行 井上 清直

目付   岩瀬 忠震(ただなり)

    

  ハリス提出の条約草案を13回の商議を重ね 

安政5年(1858)1月12日 条約案議了 合意

  

  日米通商条約締結交渉全権委員 下田奉行井上清直 目付岩瀬忠震は 今回の条約

締結は国家の根本に係わる重大事と考え 連名で老中宛上申書を提出する

 

    将軍臨席のもとで御三家審判譜代外様の各大名が開国条約について遠慮なく

率直に議論して意見を纏める

    全体の合意(多数決を用いない)を得たものを国是(国家の最高基本方針)と

決める

    その上で天皇に奏上し裁可を得た処で全国に発令する

 

安政5年(1858)2月5日 老中堀田正睦(まさよし)京都到着

  出発前に堀田はハリスに対し 天皇の勅許を得たうえで3月5日までに調印を

  終えたいと通告している処から 勅許は簡単に得られると考えていたと思われる

 

安政5年(1858)2月9日 堀田禁裏御所に参内し勅許を要請

 

安政5年(1858)2月23日 関白九条尚忠(ひさただ)返書

 条約調印は 国家の重大事であり 御三家以下諸大名と議論を尽くしたうえで再度

 奏上せよとの勅諚(天皇の言葉)が伝えられた

 再度奏上すれば承認されるのが慣例であった

 

安政5年(1858)3月5日 将軍家定からの指示が到着

  同日 調印の承認を請う書面を朝廷に提出

  (この書面は 九条関白の指示により堀田が前もって作成済みのもの)

  九条関白も「幕府に於いて良く考えて対応するように」(幕府に一任するという意味)

との勅諚の案文を用意していた

 

孝明天皇(26歳)は 堀田上京前の1月末に条約調印に反対を表明していたが

朝議構成員外の上層の公家に意見を求め 中山忠能(ただやす)正親町三条実愛

(さねなる)等13名の公家が 九条関白の案文を書き改めるべきとの意見を

提出する

 

朝議構成員

  関白 内覧 左大臣 右大臣 内大臣 議奏4名 武家伝奏2名

 

安政5年(1858)3月12日 中下級の公家88名が案文の書き直しを求めて

突如参内(列参) 当時公家は137家 2/3が抗議運動

 

安政5年(1858)3月20日 孝明天皇 小御所で老中堀田正睦と対面

  九条関白に替わり左大臣近衛忠煕が勅諚を口頭で伝える(九条関白は事実上外される)

 

  再度 三家諸大名で衆議しもう一度言上するように

(事実上 当面勅許しないとの意思表示)

 

  4月20日老中堀田は江戸に戻り ハリスと交渉 条約締結期日を7月27日に延期

 

安政5年(1858)4月23日

  井伊直弼が大老に就任

 

  4月末 徳川慶福(よしとみ 11歳)が将軍世子に内定 慶喜は二十歳

 

安政5年(1858)6月13日

  米国軍艦ミシシッピ号下田に入港 第二次アヘン戦争に敗北した清国が 

英米仏露と天津条約を締結したことを伝える

    北京に公使駐在を許す

    外国人の国内旅行を許可する開国条約

 

安政5年(1858)6月18日

  ハリス 井上 岩瀬と面談

    英国が日本に通商条約の締結を迫る前に 米国と条約を締結して置けば

    日米条約が基準となるので 英国の過大な要求を避けることが出来ると説得

 

  井伊大老の意向

    勅許無しでの調印は避けたい

    大政を委任されている幕府の権限内のこととして調印せざるを負えない

    最早 選択の余地はない

 

安政5年(1858)6月19日午後

  小柴沖停泊ポーハタン号艦上にて ハリス−井上岩瀬間で日米修好通商条約締結

 

安政5年(1858)6月24日

  徳川斉昭 水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)尾張藩主徳川慶恕(よしくみ)が

  不時登城(禁止されている無許可での登城)し井伊大老に面談

 

  条約調印は違勅にあたる

  松平慶永を大老にせよ(大老の定員は一名なので 井伊大老に辞職を迫る)

  幕府の強化が必要(慶喜を将軍世子にせよ)

    公表されてはいなかったが 既に将軍世子は慶福に内定済

  遅れて登城した福井藩主松平慶永も同様の主張で井伊を詰問

安政5年(1858)6月25日

  将軍世子は慶福に決定を公表

 

安政5年(1858)7月5日

  徳川斉昭  謹慎

  慶恕 慶永 謹慎・隠居 を命じる

 

安政5年(1858)7月6日

  将軍家定 逝去

 

7月10日 阿蘭陀

  11日 露西亜

  18日 英吉利 

9月 3日 仏蘭西 と 米国と同様の通商条約を締結

 

安政5年(1858)6月27日)

老中奉書により 米国との条約締結を届け出る

 

  孝明天皇は激怒し譲位を言及

 

安政5年(1858)8月8日

  戊午(ぼご)の密勅

    孝明天皇が大老井伊直弼個人を糾弾する勅書を京都在住の水戸藩士に下し

    諸藩にも勅書の趣旨を伝達するように命じる

    

    密勅と呼ばれるのは 此の勅書が正式の手続きを踏まない勅命で

    且つ 幕府が禁じている天皇の政治的行為であるためである

 

  幕府はこれを知り 勅書を幕府に提出すること 諸藩への伝達も禁ずるが

  水戸藩の有志は此れを拒否抵抗する

 

  安政の大獄は 此の密勅に端を発し違勅回収に抵抗するもの 反幕行動に

  対する取り締まりとして始まったものである

 

安政5年(1858)9月17日

  老中間部詮勝(あきかつ)が京都へ上洛 

 

10月24日 関白九条尚忠に条約締結の経緯を説明

 

  強国である夷敵と戦争となった時に勝算が全くなく 此の儘開国要求を拒絶し続ける

ことは出来ない

  一時の計策(時間稼ぎの策略)として調印し 今後武備充実に努め軍事力の増強が

なった段階で 嘉永7年の日米和親条約の段階まで条約関係を引き戻すつもりである

  此れを当時の用語として「破約攘夷」という

  12月24日 孝明天皇は「老中の説明を理解し 心中氷解した」と関白に表明する

  即ち 幕府の条約締結について納得了承したことを伝えている

 

  12月30日 公武が力を合わせて「鎖国の良法(鎖国時代の良い状態)」に引き

戻すための良策の考案に努めること 其れまでは破約攘夷の決行を猶予することを

関白を通じて間部老中に伝える

 

  鎖国攘夷に関するバラ色の妥協が 天皇 朝廷 幕府の間で一応成立したことになる

 

欧米世界の国際関係は 各国間で締結された条約を基本として成立する

東洋世界では 中国皇帝を中心に据えた中華秩序を基礎とし 慣例に基づく緩やかな取り決めのなかで国際関係を維持していた

即ち 国際条約に対する考え方が西洋と東洋では大きな温度差があった

このような情勢の中 日本が体力をつけた後であれば欧米諸国に東洋の慣習と論理を理解させるよう要求出来るであろうし 破約攘夷も可能であろうと考えたのかもしれないが 本当に破約攘夷を断行する積りも無く「一時の便法」で言い逃れの口実に用いただけの様な印象を持つ