御土居物語

 南北約8.5km 東西約3.5km 全長22.5km 東西が碁盤の目の様に区画された京都の市街を長方形でもなく直線状でもなく南北に長い長円形に土塁で囲う
 10か所の入り口を持ち 土塁の中を洛内 外を洛外と呼ぶ
 土塁は高さ5m 基底部20m 頂底部5m 土塁の外側に幅10m 深さ4mの濠を巡らす 多分濠の土を盛り上げて土塁を作ったと思われる 土塁の頂底部には竹が植えられていた

 戦国時代後期に 都市は惣構(そうがまえ)と呼ばれる土塁で町の周囲を囲んだ堺の町の惣構が有名である
 当時京都は上京と下京が其々別々に惣構を持ち 天正19年(1591)1月 豊臣秀吉の命により上京下京の囲いを取り除いて構築が始まった 
 
歪んだ舟形の土塁を 御土居と呼ぶ 都市の防衛 鴨川の氾濫から町を守る等々 御土居の目的は幾つか上げられているが その目的は明確にはなって居ない
 聚楽第 寺町(地割)等 幾つかの土木工事が並行して行われて居り 工賃が支払われていることから秀吉の公共工事の一環として行われたと思われ 秀吉人気の一因ともなっている
 御土居は 同年3月には 僅か2ヶ月ほどで完成している

 秀吉時代の土塁の図は残って居らず 明治期以降も破壊が進み 昭和5年に8か所 昭和40年に1か所が 国の史跡に指定されている



 御土居巡りの前に 御土居餅を食します






















































 御土居を見たいと思ったきっかけは 2つ

 一つは 敬愛する先輩 山口 拓さんのブログで御土居を拝見したこと
 二つは TV番組で見た「御土居餅」を食べたくて

 未だ訪れたことのなかった鷹が峰に上って行く途中の右側に 都本舗光悦堂という小さな菓子司があります




 
 古(いにし)への御土居の跡のほど近く
  名残をとどむ御土居餅哉

 店主の句か 将又(はたまた)名士の句か
 店頭の短冊に素敵な句が添えてあります

 丹波黒豆の入った豆大福に黄粉を塗した御土居餅
 校閲堂御主人の考案によるとても柔らかいお菓子

 1個130円 



















 御土居餅を創案した見るからに好々爺のご主人と女将さん

 朝一番で御土居餅を食べに来たと話すと とても喜んで呉れて
 御代など結構と次から次へとお勧めのお菓子やお茶を出して呉れました

 代金を受け取って貰えないのに閉口し 色々お話をしてどうにか御土居餅分だけは受け取って貰い
 再会を約しました

 朝一番から 2個も御土居餅を満喫しました












 帰りにもう一度通りかかると 真っ白な暖簾が掛かっていました


 所在地 
 京都市北区鷹ヶ峯旧土居町1−203

 電話 075−492−0798

 営業時間 9:00〜19:00 木曜定休










 さて 其れでは 御土居巡りの旅へ

 史跡として登録されているのは 以下の9か所 5番目の鷹ヶ峰 旧土居町から南に向かって歩き始めます






















































 5.鷹ケ峰 北区旧土居町2

 御土居巡りのスタートは 光悦堂の真向かいから



 



























 画面では丁度断面の形で御土居を見ることが出来ます
 NETでは 鍵は光悦堂さんが管理されているそうですが この日は中には入らず外から拝見するのみとしました
 此処から千本通りを南に 京都の中では一番傾斜のある坂道を下って行きます
 西側を流れる天神川に沿って御土居は南に続いていたようです




 4.鷹ケ峰 北区旧土居町3

 少し南に下りて 千本通りと北山通り 今宮通りが突き当たる角の西側に大正大学が在ります
 大正大学の北側 京都朝鮮第三初級学校の東側に二番目の御土居跡が公園になっています 































 左上の写真は 南側から観た御土居です


 朝鮮初級学校側に濠が有ったのか
 可也の高さになります


















 周囲を固めた石垣は 最近の造作のようで 御土居全体が公園になっています
 植木が大きく育ち 見晴らしは確保出来ません

 大正大学の 11号館 10号館 8号館が北から南へ 丁度御土居の上に建っているようです




 3.紫野 北区紫野西土居町

 更に南に下りると 三番目の御土居史跡が見えてきます































 小さめの土手が 僅かに残っています
 南北に続いていたであろう御土居を西側から見ています





















 北側から南に向いて ほぼ御土居の頂上部の断面図



 物語の付録
   御土居の上に建つアパート

 その名も「御土居マンション」 

























 2.平野 鳥居前町






















 櫻で有名な平野神社の西 北野天満宮の北側に かなり大きな史跡が残ります
 良く雑誌でも取り上げられる場所です
 登らないでくださいとの看板が有ります 山口 拓先輩は大胆にも上部から写真を撮られています
 私も登りたかった...
































 1.北野天満宮




 北側の入り口 写真の奥に天神側が流れ北野天満宮の西端を形成しています




















 御土居の上の大銀杏








































 天神川沿いは 紅葉の名所でもあります
 秋の盛りにだけ もみじ園が解放されます
 通常は施錠され 天神川の方には降りていかれません

 中央は 菅公御歌 古今集 この歌は宇多天皇の奈良行幸の折 手向山八幡宮に参拝した時の歌
 この場所で詠まれたものではありません

 右側は 「御土居の紅葉」史跡碑 揮毫は千宗室




 南から北へ カメラを向けています
 左側急斜面の下に天神川が流れます



















 南側の出口

 今出川通りに面した北野天満宮南端の大鳥居の近くに出て来ます 


















 此の夜 旅のきっかけとなった 山口拓先輩と 20数年振りでの再会を果たしました
 昔話 京都話 歴史話は尽きることなく 愉しき夜を過ごしました 
 拓さんは 北海道帯広柏葉高校から北海道大学 札幌水道局を経て日本ユニバックへ
 強烈な個性と行動力溢れる先輩に随分学ばせて頂きました
 京都に住みたくて転職を重ね 念願の京都生活を満喫されて居られます

 拓さんのブログは こちら




















 9.西ノ京 原町


 西大路を下り 大将軍のバス停前に京都市立北野中学が在り その校庭の中に 御土居が残ります
 中学校の事務室に伺うと 案内して呉れます

 






















 校庭北側の御土居全景

 左端から校庭に沿って直角に左折していたようです























 上底部から校庭に向けて階段が設けられています 
 上から見るとかなりの高さです
























 写真中央が少し盛り上がっているのがご覧になれますか?
 御土居の痕跡が微かに残ります

























 左が北側の通用門 右が南側の北野中学校正門
 御土居は 通用門側にあります

























 8.廬山寺 上京区北之辺町

 御土居の東側では唯一の史跡が 京都御所の東 廬山寺の境内に在ります





























































 此処の史跡も樹木が茂り 頂底部からの視界は遮られています






























 御土居とは 無関係ですが 廬山寺には私が探し求めている「大和坐りの仏様」が居られます
 平安時代 阿弥陀三尊像


 廬山寺の正式名称は 廬山天台講寺 紫式部邸宅跡に建ち 源氏物語執筆の地と伝えられています
 源氏物語自体は何時頃書かれたのか明確でなく 執筆の地の伝承は他にもあるようです




 7.紫竹 上長目町

































 此方は北東の角にあたり 堀川通りが賀茂川に突き当たる加茂川中学校の構内に僅かに土塁が残ります




 土塁の有ったであろう場所が少し盛り上がっています




















 番外 大宮交通公園内


 何故か 大宮交通公園内の土塁は 史跡となっていません
 公園の西北側に可也大きく保存されています

























 6.大宮 土居町

 文献によると 此処が一番大きく土塁と濠が残っていると書かれていますが ご覧の程度しか見付かりませんでした





















































 一巡してみると 何とも大きな土塁です 僅か3ヶ月で此れだけの土木工事を成し遂げてしまった秀吉の政治力 組織力 財力 行動力に感嘆します
 京都ならではの史跡ですが 都市の発達に伴い殆どの部分は取り除かれてしまいました

 京都駅の0番ホームは 御土居の濠の上に建てられているとのこと(土塁の上に建てられているというのは間違いだそうで 建設時には痕跡もなかったそうです)

               完