ある会合が有って 鶴見総持寺に伺いました
 以前より 此の地に 陸軍中将大西瀧治郎の墓が在ると聞いていましたので
 少し早めに家を出て 9:00に総持寺の受付を訪ねました
 若い僧侶が応対をしてくれたので「海鷲観音にお参りしたい」と尋ねると「?」
 大西瀧治郎さんのお墓は?と畳みかけても反応なし
 墓地の台帳を引っ張り出し 暫く探して 「海軍の方ですね...」と地図を渡して呉れました

 此の対応からして 訪れる方は少ないのかなと思いながら 地図を片手に本堂にあたる太祖堂の裏手に廻りました
 写真の奥に見えるのが太祖堂です

 











 土曜日の早朝にも拘らず 墓所は綺麗に清掃され 供花と線香が供えられてありました

 従三位勲四等功三級 海軍中将 と書かれています




























 昭和38年8月23日 再建立とありますから 建て直したようです

 施主は 奥様の大西淑恵と児玉誉士夫

 

























 墓標の左脇に置かれているのが「海鷲観音」

 昭和27年彼岸 施主 大西淑恵

 小振りの石像です


























 向かって右側に 大西の遺書の碑が建ちます
 遺書の実物は 靖国神社遊就館に展示されて居ます

 特攻発案者と呼ばれますが 兵器の製造は 真珠湾/ミッドウェー両作戦の作戦参謀 軍令部第二部長の 黒島亀人少将です
 (真珠湾航空作戦の当初の企画者は山本五十六の命を受けた大西です)

 「俺も後から行く」と特攻を強要した上官達で 戦後自決したのは大西中将だけであったことを深く銘記しなければなりません

 最後に辞世 「之でよし百万年の仮寝かな」が彫られています

 何度見ても 自決を覚悟した人の文字とは思えぬ遺書です

 色々な思想を持つ方が居られるとは思いますが 是非この遺書を自分の眼て観ていただきたい そう思います









 左側の碑文は 地震で傾いて 土嚢で支えられていました






























 大西家の隣りは 猪木家 
 NETには アントニオ猪木の実家ともありますが...



















 大西家の斜め向かいは 益田家 三井財閥総帥 増田孝の墓所 鈍翁の戒名を見付けました

 益田孝氏は 三井物産を創立するとともに社長就任 三井財閥の慶應閥を一掃させたとウィキペディアに
 書かれていました...


















































 総持寺には 石原裕次郎の墓も有ります
 今や 此処ばかりに参拝者が群がります

 観光名所化を道元師はどう思うでしょうか
 「裕ちゃん」の案内板には 何とも興醒めであります