大山崎散歩


 散歩のスタートは 東海道線山崎駅から
 少し南に阪急京都線大山崎駅がありますが
 山崎駅からスタートします











 その理由は

 山崎駅前に 妙喜庵 があります

 妙喜庵は事前に往復はがきで申し込まないと拝観が出来ません









 妙喜庵には 
 利休作の茶室で現存する唯一の茶室待庵があります


















 現在の妙喜庵から 西国街道に下りて来た処にも妙喜庵の碑がありました
 此処まで広かったのか 少し先に移転して現在の位置にあるのか
 詳しいことは不明です


















 時間調整で入った駅前の喫茶店の珈琲は
 CROWN COFFEE とありました
 ご主人に聞くと 大阪の焙煎業株式会社ジャルフジャパンの製品だそうです

 すっき入りした美味しいコーヒーでした









 山崎駅から更に西国街道を東へ行くと 
 大山崎町歴史資料館があります

 此処に 待庵の模型があります
 模型なのに 撮影禁止...何故?









 資料館に飾られていた「天王山の蛙」

 京都から大阪見物に来た蛙と 大阪から京都見物に来た蛙が
 天王山で逢って お互いの行先を立ち上がって見てみると
 見慣れた自分の住む町と同じようなので 行ってみても仕方ないかと
 来た道を引き返した という寓話を模した像であります















 此方も山崎駅の西側にある離宮八幡宮













 嵯峨天皇の離宮 河陽宮跡地に社が建てられたところから
 離宮八幡宮との名前が付けられました


















 そして此処は 本邦製油発祥の地の碑が建ちます



















 油祖像

 八幡宮の神人達が 油座(組合)を組み
 製油独占権を得て 日本各地に油を売り歩きました

 戦国時代 松波庄九郎は八幡宮の鑑札を受けた油商人として各地を巡り 
 斉藤道三として美濃の領主にまで駆け上ります













 この時代の油は 荏胡麻(えごま) シソ科の一年草から搾ります

 効率は悪かったようです


















 お決まりの狛犬
 派手気味ですが 悪くない



















 一番の目的地 大山崎山荘美術館へ
 アサヒビールの無料送迎車で












 切り通しの手前でバスを降りて
































 大山崎山荘は 大正ロマンの男と云われた大阪の実業家 加賀正太郎が建てたチューダー様式(中は鉄筋コンクリート構造)でテムズ川を見下ろすウィンザー城を模したもの
 加賀は ニッカウィスキー創立に寄与した方
 コレクションは アサヒビール初代社長 山本為三郎氏の収集したもの
 山荘が マンションに建て替えられそうになった折 アサヒビール樋口広太郎社長(当時)が企業メセナとして経営することになったそうです
















 木津川 宇治川 桂川 の三川が淀川に合流する景勝の地
 真後ろが 天王山となります
























 安藤忠雄設計の地下展示室
 モネの睡蓮が 飾られます






















































































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 大山崎山荘美術館の北西の山裏に宝積寺(通称 宝寺)があります
 山号は 天王山(古くは補堕落山)聖武天皇の命を受けた行基による開基

 三重塔は桃山形式 山崎の合戦の折に 一夜にして建立したとの伝承が残ります










































 大山崎山荘美術館の北西の山裏に宝積寺(通称 宝寺)があります
 山号は 天王山(古くは補堕落山)聖武天皇の命を受けた行基による開基

 三重塔は桃山形式 山崎の合戦の折に 一夜にして建立したとの伝承が残ります


 




















 珍しい亀の手水鉢


































 ご本尊 木造十一面観世音菩薩立像 像高181cm 1233年 鎌倉時代 仏師法印院範 法橋院雲作

 鎌倉時代の作としては 保存状態が大変良く感じます







































 天王山登り口にある霊泉連歌講跡の碑と 山崎宗鑑句碑

 室町幕府九代将軍足利義尚に仕え 俳諧の祖とされる山崎宗鑑(俗名 志那 弥三郎範重)は
 義尚の死後 この地に隠棲し連歌講の中心人物として活躍 やがて俳諧に傾注していったと伝えられます

 うずききてねぶとに鳴や郭公

 うずきは 二月 ねぶとは根太(声太くの意) 郭公はほととぎす

 友人であった伊勢神官 荒木田守武が根太(潰瘍)を患っていることを揶揄した句と云われます