櫻間の芸風を受け継いで

 能の歴史は 7世紀に中国大陸から伝わった散楽に端を発すると云われます  
 興福寺 春日大社等の神事を司る外山座(とびざ)結崎座 坂戸座 円満井座(えんまいざ)を大和四座(やまとしざ)と呼び
 其々が現在の宝生 観世 金剛 金春の各流派に繋がるとされます
 室町時代に 足利義満が観阿弥世阿弥親子の結崎座を庇護し現在の能楽の原型が完成されました

 江戸時代までは猿楽と称され 元和年間に金剛座から喜多流が分かれ 現在の能五流 能楽協会に繋がります

 金春流は その始祖を秦河勝とする伝説を持ち 世阿弥の娘婿となった金春禅竹の頃に京都に進出します
 明治維新後 急速に衰退した能を支えた明治の三名人「宝生九郎 梅若実 櫻間伴馬(後の左陣)」の一人
 櫻間左陣の次男 櫻間弓川も名人と云われました
 弓川の息子が櫻間金太郎師 私も金太郎師の舞台を何度も拝見しています

 私の前職での人事部時代の一年先輩が長谷猪一郎氏
 長谷さんは  十二世千五郎 二世千之丞を叔父に持つ大蔵流狂言茂山家のご出身
 元々狂言のお稽古に 桜間金太郎師に師事し シテ方を務めて来られました

 サラリーマンを続けながら 能楽を続けられた方は少ないかと思いますが
 平成25年4月には日本ユニシス株式会社を退職され 愈々能に専念されるのではと推測します

 私が社会人になってから ほぼ毎年 長谷師の舞台を見続けて来ました


 半蔀(はじとみ) 立花供養 平成24年の舞台から

 京都 雲林院 時刻は黄昏時 夏が終わり秋を迎えるころ
 後にお盆となる安居(あんご)の終わりに 花々を弔っていた僧が 一輪の花が次第に花開いていくのに気付く
 傍らに一人の女が 彼の女曰く「此れこそ 夕映えの光を受けて咲く夕顔の花 
 その花の影に現れた私は 既にこの世に亡き身 遠い昔の世語りに 儚い我が名を留めるばかり 在りし日は五条あたりに居ました女」 
 そう明かすと 女は花の影に姿を消す...

 私は この舞台を 脇正面から拝見しました
 シテの所作 姿の美しさは 忘れられません











































 同じく半蔀から

 後シテで舞われる序の舞は 正直 まるで調子がつかめません
 息の詰まる様な 迫力だけが残ります


















 平成25年の舞台は 石橋

 この踊りの勇壮華麗さは 技量経験と体力と両方を求められます
 従って この能を舞う年齢が とても難しい




























 平成27年は 融 でした

 写真は 笏の舞 との解説が付いています

 長谷師匠の師 櫻間金太郎先生の実父で 大正から昭和に活躍された
 櫻間弓川(キュウセン)は著書の中で この「融」と云う能を
 「少ない登場人物など簡素な構成でありながら
  喜怒哀楽の複雑な感情を深く表現した 能本来の精神を最もよく表現してゐる能」と
 称賛しています






















 田村

 幽霊モノではありますが 怨念もなく悲壮感もなく
 坂上田村麻呂の勇壮な武勲を称えるもので
 長谷師匠が 多分得意とされる舞ではなかったかと
 想い出します


























 角田川 

 他流では 隅田川と書きますが 金春では 角田川

 初めて お孫さんを子役に配しての舞台でした



























 巴 

 長谷師匠は 身長があり 速さを得意とされたので
 華麗にして勇壮な舞を 演じられます

 とても 大きな舞台だったことを想い出します















 邯鄲































 熊坂






























 黒塚

 櫻間では 修羅は赤頭が多いと聞いていました
 長谷師匠の師匠 故櫻間金太郎師の 修羅は
 勇壮且つ華麗で 魂を吸い取られるような 素晴らしい舞だったことを
 想い出します

























 平成30年 舟弁慶































 令和元年 石橋

 この写真は 「もじり」という型と お聞きしました

 素人には取れぬ 瞬間の美です



























 偶然 長谷師匠の着付け姿を
 発見しました


























































 説明書きには 「負修羅」とありました