櫻間の芸風を追い駆けて
目黒の喜多六平太記念能楽堂で「隅田川」を
拝見して来ました
シテは塩津哲生氏
2階席のある珍しい能楽堂です
通常「隅田川」で使われるシテの面は「曲見」(しゃくみ)
もしくは「深井」が多いのだそうですがこの日用いられたのは
「浅井」でした 熊本八代・松井家所蔵の無銘と解説書に
書かれています
昨年 金春の「角田川」を観る機会が有りましたが
流派としては喜多と金春は下掛り(大和掛り)三流では
謡や舞に共通点も多いと聞いていましたが 実際には
随分色々違いが有ることに気が付きました
この日の舞台は 梅若の亡霊に子方を使う演出
高らかな南無阿弥陀仏を塚の中から唱えた後 姿を現し
母親とすれ違うように塚の中へと消えて行くという演出
でした
説明によると 2階の休憩所の机は 階層前の舞台に使われていた地謡座の一枚板
左の窓際のものは わざと裏返しにしてあるとのことです
能楽堂に冠されている喜多六平田師は大変小柄な方でしたがとても大きな舞台を演じる
名役者 私はTVで床机に座ったまま只向きを変えて行くだけながらとても印象的な
彼の「頼政」の一部を観た事があります
能 隅田川は 隅田川下流に伝わる梅若伝説に
拠るものと云われています
梅若の塚がある木母寺
梅若塚
梅若は実在の人物
京都の北白川に吉田少将惟房の子だそうです
貞元元年の3月15日、隅田川の湖畔で
「尋ね来て 問はは応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと」
との句を残し、12歳という若さで亡くなります
梅若権現は芸能の神様でもあるようです
写真だけ撮らせて頂きました
三遊塚 明治の巨匠 三遊亭円朝が
その師 二代三遊亭円生の遺言により
円生の命日に建てたものとか
製糸で財を成した
明治財界の巨頭 田中平八の碑
題字は伊藤博文伯爵
都内第一の大きさだそうです
左より 浄瑠璃塚 川柳塚 梅若塚二代目柳の塚
蛇神弁才天とのことですが
日本にも不思議な神さんが居られますね
頭部と身体の蛇とは跡で接着したような跡が
有ります
大神(おおみわ)神社のご神体は蛇の化身を形どるとも
謂れますので その影響が有るのかも知れません
此方は 浜松町金杉橋付近の川沿いにある塚?
見た目は 梅若塚にそっくりです
海の神様を祭ったものであることは
間違いないのですが
何も書き物が有りません
鳥居が有るから神さんでしょうね