大山巡り

                                  祖父 卯次郎の足跡


ありふれた「大山」という名前ですが それ程多くは無いように感じます
「大山」と名前を追いかけて 集めてみます


 最近デパ地下もスーパーも肉売り場のハムは 鎌倉ハムが独占状態

 そんな中で 見つけた大山ハム
 包装紙の裏には 製造者 鳥取県米子市夜見町 と書かれています

 地方で頑張っている会社を見付けると尚更応援したくなります





























 回向院 力塚の裏面
 相撲年寄名が刻まれています

 右端の欄外に 大山の文字が
 読めます










 江戸東京博物館 常設展示から

 大山街道 道標

 「これより 大山道」 

 天下泰平 国土安全 の 文字が読めます

 叩くとボコボコ音がします
 そう プラスチック製です












 三軒茶屋の交差点に建つ大山街道の道標
 
 此方は本物です



















 大山稲荷神社

 渋谷区松涛町の観世能楽堂に向かう途中
 旧都知事公邸(美濃部さんがお住まいでした)の隣に
 見付けました
 観世能楽堂には四半世紀通っていますが
 殆ど何時も夕刻で気が付きませんでした

 由来を調べてみます












 東武東上線 大山駅の駅名表示板

 通過したことは何度も有りますが
 降りたのは初めてです













 三嶋大社です

 御祭神
   大山祇命(おおやまつみのみこと)
   積羽八重事代主神(つみはやえ ことしろぬしのかみ)
 
 御二柱の神を総じて三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と
 称しています

 創建は 不明ですが奈良朝以前のようです



 山形の銘酒「大山」

 最近 行きつけの店 千葉の「みどり鮨」にて
 純米吟醸でしたが 甘過ぎて困りました
















赤坂日枝神社との出会い


 何時からかの記憶も有りませんが
 毎年初詣は小学校の頃から赤坂日枝神社に
 参拝を続けています
 ご祭神が 大山咋神(おおやまくいのかみ) 
 日枝神社のお使いは申 母と姉が申年生まれ
 なんていう語呂合わせを 父から聞きながら
 親近感を持った次第








 此方が本来の表参道








































 赤坂見附側の此方は裏参道です













 ご祭神は 大山咋神(くいのかみ)


















大山咋神

 「古事記」に『大山咋神(おほやまくひのかみ)。
 又の名は山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。
 この神は近淡海国(ちかつあふみのくに)の日枝山に坐す。
 また葛野(かづぬ)の松尾(まつのを)に坐す。
 鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり』とあるように、
 近江国(今の滋賀県)の日枝山(比叡山)に鎮まりましたのが
 最初で大年神(おほとしのかみ)の御子神で、別にその御名を
 山末之大主神とたたえて申し上げます。

御神徳
 大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に
 広く地主神として崇められ、山・水を司り、大地を支配し万物の
 成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う御神徳は広大無辺であります。
 又、近年は厄除け・安産・縁結び、また商売繁盛・社運隆昌の神として
 崇敬されています。

神系
           −大国御魂神
 須佐之男神−大年神ー−御年神
           −大山咋神−−−別雷神
                         (日枝神社HPより)


日吉大社



 比叡山延暦寺を開いた最澄が
 寺の鎮護神と定め 天台宗の興隆とともに
 全国に広まりました












 この鬱蒼とした森の濃い緑には
 何か霊的な気を感じます



































 西本宮祭神は 大己貴神(おおなむちのかみ)

 天智天皇七年(668年)大津京遷都にあたって、
 大和国三輪山(大神(おおみわ)神社)より
 御神霊を御迎えし、大津京を始め国家鎮護の神として
 祀られました。 
 この神は、国土を開拓・統治なされた神であります

 東本宮祭神が 大山咋神(おおやまくいのかみ)

 古事記上巻に「此の神は近淡海国(ちかつおうみのくに)の
 日枝山(ひえのやま)に坐(ましま)す。」と
 記載されているように、神代の昔より比叡山に鎮座する
 地主神であります。




 御神名の「クイ」というのは、山の樹木やその麓の田畑の五穀をグイグイと
 伸ばし育てて下さる御神徳を指したものです。
 その兄弟神には竃神・庭の神・玄関の神・土の神があり、
 その御両親の神が大年の神(稲の神)と水の神であることから
 五穀豊穣から家庭日常生活の守り神として広く信仰されております。


 母校巡り


 神奈川県立鶴見高校
 
 身体を壊して一年間の休学後に
 一年生からやり直した高校生活

 良き師 良き友に恵まれた三年間でした









 体調が完全には回復せず
 週一日位はお休みする程度の体力

 余り勉強はしませんでした











 正門をくぐると 玄関前に「希望」の彫像が

 若者には刺激が強すぎました...


















 最初の一学期だけ通った
 世田谷区立中丸小学校
 畑を挟んで我家から一区画先
 
 グラウンドまで仮設校舎が建てられ
 団塊の世代の競争が始まりました




























 中丸小学校の校章
















 2学期から編入した小学校跡
 現在は放送大学

 校門の右側の柱の下で
 入学の時に写真を撮ってもらいました












 小学校を囲む塀
 この塀の上をぐるっと
 歩くのが 素敵な冒険でした

 落ちたらかなりの大怪我を
 していたかも知れません











 此方が正門
 現在は 附属高等学校















 此方も一学期だけ通いました






















 中学校 我々は15回生
















 中丸小学校から編入した
 小学校の正門
 木々は大きくなりましたが

 校舎も卒業した頃と
 余り変わっていない印象です











 校章は 櫻と剣

 大学は ペンと剣...

















 私の生家跡
 昭和23年から中学1年まで
 この地で育ちました
 右奥の門扉の先を左に曲がると
 我家が有りました
 6畳×2 四畳半 の小さな家でした

 右隣の野沢園は昔のままです









 我家の前の道
 昔ながらのゆるい坂道です

 左側は 一面の畑でした
 












 家から一番近い交差点

 背の低い塀に向かって
 毎日壁キャッチボールに励みました













 我家から丁度真裏にあった
 俣野邸跡
 俣野家の離れに下宿していたのが
 長嶋茂雄さん

 今も残る電信柱に
 買ったばかりのブルーバードを
 何度もぶつけて凹ませた長嶋さんの
 懐かしい想い出が詰っています








 直ぐご近所の 川上 哲治さんの
 ご自宅
 広い芝生のあった場所には
 家が建ってました













 中学一年から結婚するまで住んでいた
 綱島の我家跡
 レオパレス21の集合住宅(16戸)
 になっています
 












 我が家前の地獄坂
 車はLOWでなければ
 上れません














 見下ろすと正面に新横浜駅が見えました
 一面の田圃だったのに今は空き地も見えず

 我が家が越してきた時は
 山の上に4軒しか家が建っていませんでした
 











 住所も変わりました
 昔の住所は 
   横浜市港北区新吉田町948−3


















 大山家墓所

 大山本家墓所は多磨墓地ですが
 父は4男なので入れません

 父は生前 横浜に墓所を購入して
 いましたが 最後の10年間を過ごした
 千葉の地に新たに求めました

 市営墓苑にご覧のような墓石で
 とても安価でした




 千葉市若葉区多部田町1492−2
   千葉市平和公園 043−228−2057


 墓所は マ−2区133号

 生まれ育った世田谷区野沢の住所が
 2−130で 何か同じ様な数字の
 並びが印象的です












 大山家の家紋です
 珍しいものの様で
 通常の家紋帳には
 載っていません













 父には戒名が有りません
 大山家の宗旨は真言宗ですが
 遺言もあり俗名のままとしました



















 いずれ私の終の棲家が
 此処になります




















 中央辺りが
 大山家墓所です

 













 多磨墓地です

 大山 本家の墓所へご案内します

 










 墓地内の表示はとてもしっかりしています

 只 番地が飛んでいるところもあり
 慣れないと迷います

 本家の墓所は 9区1種15側です
















 子供の頃 良く父に連れて来られた時

 奥の松が目印と云われました



















 祖父達が眠る大山家墓所です














 祖父
   猷光院殿顕彰義徹居士
     昭和14年7月19日
 祖母
   壽徳院貞鏡妙清大姉
     昭和46年1月19日
 
 戒名には 本人の生前の性格や特質を
 織り込むと聞きます

 祖母が亡くなった時 
 父は「母が父のなくなった半年後の同じ日に
 亡くなるなんて 父が呼んだのかなあ」と
 呟いていたのが印象的でした








 直ぐご近所に 第68代内閣総理大臣
 大平正芳氏が眠っておられます

 9区1種1側 15番











 ご近所その2

 陸軍大将 児玉源太郎氏 

 8区1種17側1番

















 この日のもう一つの目的は
 前職同期 樽井義人君の墓参

 平成3年3月20日没 
 享年 42歳 本厄の年に
 亡くなりました
 
 色々な想いが胸を過ぎります








 多磨墓地でどうしてもお参りしたかったのが
 海軍大将 井上成美氏

 21区1種3側18番


















 墓所の片隅に
 「井上成美 ここに眠る」の墓碑が
 建てられていました

 最後の海軍大将はどの様な想いで
 眠っておられるのでしょうか









 もう一箇所訪れたかったのが
 甘粕家墓所

 戦前 甘粕事件として高名な
 甘粕正彦氏

 最近彼の伝記を読み その生涯に
 複雑な想いが残ります







 昭和20年8月20日 敗戦を受けて
 青酸カリで服毒自殺を遂げます 享年55歳